音楽は国境を越えない?


音楽は国境を越える、というのは自分自身も実感していることで、日本にいても海外の音楽は素晴らしいと思うし、海外の人も日本の音楽は素晴らしいと思うし、そういったところで国境の垣根はなくなってきているのは、だれもが理解できることだと思います。

という前置きがあるとして。

その背景にあるのは西洋音楽

テレビやラジオをつければ何かしらの音楽は流れ、街に出れば何かしらの音楽が流れ、現代の生活は音楽を一切聞かない、というのが逆に難しいという考え方もあります。

自然と音楽を聴き育っていくわけですが、その背景にあるのは間違いなく西洋音楽に基づいた音楽です。

そういう意味で、バックグラウンドで培ってきたものが海外の人と日本の人が同じだからこそ、音楽が国境を越えているという考え方になるわけで、これはある意味では画一化が進んでいるのかな、と思っています。

音楽は国境を越えるのか

先日、オクターブ等価性についてに面白い記事がありました。

「音楽は世界共通の言葉」という通説が間違っていた可能性

オクターブ等価性というのは、例えばドレミの歌をピアノで弾いたとき、そのオクターブ上で同じことをやっても同じ曲として認識することができます。

これは厳密にいえばオクターブ違う音ではありますが、それでもやっぱり高いドも低いドもドであると感じることができるのがオクターブ等価性というやつです。

アメリカ人と、西洋文化から拒絶された南米のチマネ族の方で実験を行ったところ、このオクターブ等価性はアメリカ人のほうで見られるという実験結果についての記事です。詳しくは上記の記事に書いてあります。

オクターブと五度はハーモニーの原型で、そこから分析が進み現在の12音階であったり、和声が発展していきます。

こういった実験結果からも、やはり音楽がバックグラウンドなしに国境を越えるかというと、ちょっと違うのかもしれないのかな、と思うわけです。

気になる昔の音楽

とはいえ、世界がここまでグローバルになる前からも、楽器の存在は世界中であったわけで、実際はどのような音楽だったのでしょう。

実はどうしても、たとえ古代の楽器が出土されたとしても、それでどのような音楽を奏でていたかまでは、残念ながらわかりません。

現代で昔の音楽を再現しようと思うと、どうしても西洋音楽の脳になっている人たちがそれを解析するので、もしかしたら細部は異なっているかもしれません。

その細部にこそ本当は考古学的な価値があるわけですが、ここが保存できない音の難しさでもありますね。