実は最近、壬申の乱とはなんだったのかと気になり、ちょこちょこ調べています。
こういうのも不思議なもので、学生時代はそんなのに興味がなかったわけですが、大人になると気になるんですよね。というわけで、手書きブログです。
日本最大級の内乱
壬申の乱とは、672年に起きた古代日本最大の内乱です。
関ヶ原や応仁の乱など、これまでもいくつかの大きな内乱はありましたが、壬申の乱もまたトップレベルの内乱です。
まぁ何を持ってランクづけするかにもよりますが、個人的には壬申の乱は天皇の座を争う戦いで東西が割れたという意味で、ある意味では1位でもいいかなと思ってるくらいです。
その壬申の乱を超簡単に解説します。
まず、天智天皇がいました。
誰だよって感じの人もいるかもですが、大化の改新は聞いたことありますか?645年のあれです。
そもそも大化の改新って、クーデターなんですよね。
それで蘇我入鹿を暗殺して、国のトップ、つまり天皇になったのが天智天皇です。
中大兄皇子、中臣鎌足っていうと覚えている人もいるかもですが、中大兄皇子が天智天皇です。
大化の改新っていうくらいだから、改革をしていたわけです。
しかし改革をする人はいつの時代も疎まれるもの。
ここで登場人物が二人います。
天皇の子供の大友皇子、天皇の弟の大海人皇子です。
壬申の乱とは
壬申の乱とは、天智天皇の後の天皇を誰が担うかの戦いです。
もともと大友皇子がなる予定だったわけですが、それに反対したのが叔父に当たる大海人皇子です。
ここまでだとわりとありがちな展開です。
改革を進めていた天智天皇は反対派も多く、そのあたりを味方につけて反旗を翻したのが叔父です。
まぁそれで、結果的に叔父が勝った感じです。
それじゃあ天智天皇の次の天皇が大海人皇子かというと、その辺りも謎なんですよね。
まぁ昔の話ですからね!
日本書紀と噛み合わない歴史
日本は昔の情報が残ってないので、中国の情報をもとに邪馬台国とかそういう歴史が残ってる感じです。
日本独自での歴史は、ほぼ同年代にできた古事記と日本書紀がベースです。
日本書紀では天智天皇のあとは天武天皇、つまり壬申の乱の勝利者である大海人皇子が次の天皇になってます。
でも、現在の皇室ではこの間に弘文天皇、つまり大友皇子が即位したことになっています。
日本書紀ではこの弘文天皇の存在がなかったことにされてるんですよね。
日本書紀ができたのは720年、壬申の乱の比較的すぐあとです。
歴史は勝者が紡ぐもの、天武天皇が自分こそ正当な後継者であるという意思が反映された感じでしょうね。また、天皇を倒して天皇になったというのを消したかったのかもしれません。
実は大友皇子が天皇になったとされているのは、明治以降のことです。
日本書紀では認められていないものの、他の書物や記録ではそれに近いものがあることが理由となっているようです。
昔のことはまだまだわからないことだらけですね。埋もれてしまった歴史も、さすがに1000年以上前だとたくさんありそうです。