ゴリラゲイ雨の根っこはLGBT差別ではない


梅雨から夏にかけ、集中豪雨が起きやすい気候になります。

先日「ゴリラゲイ雨」というキーワードがネット上で話題となっていました。

これはもちろん、ゲリラ豪雨をもじった言葉です。

ネットミームとして存在し、10年以上前から使われている言葉とも言われています。

東急ハンズの謝罪

東急ハンズがTwitterでゴリラゲイ雨という言葉を使ったことに対し、謝罪を行ないました。

この事に関しての記事はこちらです。

東急ハンズ「ゴリラゲイ雨」ツイート後に謝罪 「差別的な文脈念頭になかった」(ねとらぼ) – Yahoo!ニュース

ゴリラゲイ雨というキーワードに差別的な文脈につながるおそれがあるということです。

それについては、今更説明する必要もないでしょう。

論点はいくつかありますが、企業の公式Twitterで使う言葉としてはふさわしくなかったのが一点です。

正直なところ、ゲイとかホモとかそういった言葉で揶揄するようなことをは、昔は許されていた感はあったかなと思います。

時代が変わり、そういうのってもうやめない?って道を選んでいるわけです。

表現の自由とか言葉狩りじゃないかとか、そういった話が必ずこの文脈だと出てくるわけです。

言葉狩りかどうかという意味では言葉狩りでしょう。

大事なことは、なぜ言葉狩りをしなければならないかということです。

もう一つのゴリラゲイ雨

ゲイに注目しがちですが、ゴリラだってその対象になってもおかしくはありません。

ゴリラ=黒人となり、これが黒人差別へと繋がりかねないおそれがあります。

欧米ではアジア人をイエローモンキーとされ、アジア人へのバッシングということで猿のモノマネをされたり、猿の鳴き声のモノマネをされるということもあります。

サッカーでも少し前まで、アジア人がボールを持ったらそういうことされたりしていましたしね。

普通にテレビで世界中継されているのに、現地の選手やお客さんはよくそういうことやるよなあと思ったものです。

最近はアジア人もヨーロッパで増えてきたのか、社会が成熟したのか、減ってきている感もあります。

まぁたまにJリーグでも同じようが起きます。残念な話ですけども。

こういった人種差別も、長い時間かけてたくさんの血が流れて、もうこういうのやめようという道を進んでいるわけです。

時代によって、価値観は異なります。たしかに昔はどこかで許されていました。

これはつまらない世の中なのか

人を馬鹿にするのって、ぶっちゃけ楽しいのです。

あだ名禁止のところにも通ずるところがありますが、子供のあだ名は時に残酷なネーミングとなります。

なぜって、楽しいからですよね。

人を馬鹿にする楽しさって間違いなくありますよ。

馬鹿にするのエスカレート系でもありますが、侵略者が原住民を殺して楽しむとか、娯楽として処刑を民衆に生公開するとかが、その最たるところかなと思います。

人がゴミのように死んでいくところとか、本当はきっと楽しいんですよ。

でも、今の時代にその楽しさは許されないですよね。

時代が変われば価値観が変わります。

昔は奴隷時代からの名残りもあり、黒人がその対象となりました。

じゃあ次は誰を馬鹿にしようかなとなると、そこで選ばれるのがマイノリティです。

ぶっちゃけ、ゴリラゲイ雨を楽しんでいた人たちは、別になにも悪気はなかったと思うんですよね。

そもそもその大半は馬鹿にする気持ちすらなかったのでしょう。

たぶんそれは昔から同じで、先住民族を殺しまくっていた人たちも、悪気はなかったのかもしれません。

ただ時代が変わった、それだけのことです。

今は多様性とかそういった言葉の意味合いが大きくなり、昔のように人のことを馬鹿にしにくい世の中になっていると思います。

その結果、つまらない世の中になるのでしょう。これは間違いないです。

だけど、世の中には人を馬鹿にすること意外にも楽しいことはあります。

今回の件の根っこはここにあります。

今まで人間社会には人を馬鹿にする娯楽がありましたが、もうそういうの止めて他に新しい楽しいこと探しませんか、ということです。

これを理解しない限り、第2、第3のゴリラゲイ雨が登場することになるでしょう。