「核保有」を議論することすら許されないのか?オフレコ発言報道で思うこと


これはスタエフの文字起こしをブログ化したものです

数日前から、Xのトレンドが「核保有」に関する話題で埋め尽くされていますよね。どうやら、政府高官が「日本も核を保有すべきだ」という趣旨の発言をした、ということらしいんです。

ただ、どうもこれは「オフレコ」での発言だったようで、それをメディアが記事にしてしまった、というのが事の真相のようです。

オフレコを記事にする是非と、政治家のコミュニケーション

このニュースを聞いて、僕がまず思ったのは、政治の世界における「オフレコ」って、一体どういうニュアンスなんだろう?ということです。

僕ら一般人の感覚からすれば、「記事にされたら困ることは、そもそも言わなきゃいいじゃん」って思いますよね。でも、政治家と記者の間には、僕らには分からない特殊なコミュニケーションの作法があるのかもしれない。「ここだけの話だけど、君たち報道陣には知っておいてほしい」みたいな。

SNSで言えば、「これは拡散しないでほしいんだけど…」と前置きして、自分の本音をポストする感覚に近いんでしょうか。

もちろん、オフレコを記事にするメディアの姿勢も問われるべきでしょう。でもそれ以上に、今の時代、一度口から出た言葉は、どんな形であれ広まってしまうリスクがある。特に政治家のような立場にある人は、そのことをもっと強く意識すべきだったのかもしれません。

「核保有」はタブーなのか?議論のテーブルに乗せることの重要性

そして、このニュースのもう一つの大きな論点。それは、「そもそも日本は核兵器を保有すべきか否か」という、非常に重いテーマです。

正直に言うと、僕はこの問題について、これまで深く考えたことがありませんでした。自衛隊の憲法明記については「今すぐやるべきだ」と思っていますが、それ以上、つまり核を持つかどうかについては、明確な意見を持っていませんでした。

でも、今回の件で色々な意見を見ていて、強く感じたことがあります。
それは、「この問題を議論のテーブルに乗せることすら許されない」という風潮は、果たして健全なのだろうか?ということです。

戦後80年、日本では「核」について語ること自体が、ある種のタブーとされてきました。その話題を口にするだけで、「けしからん!」と非難される。その気持ちは、世界で唯一の被爆国として、痛いほど分かります。

でも、もうすぐ戦後100年という節目が見えてきました。
「いつまでが戦後なのか」「なぜ特定の5カ国だけが核兵器を持つことが許されているのか」
300年後も、この理不尽な構造は続くのでしょうか?

ロシアがウクライナにしたように、核をちらつかせて他国に侵攻する国が現実にいる。そんな世界で、「アメリカは本当に日本を守ってくれるのか?」という不安は、誰しもが持っているはずです。

僕が言いたいのは、「核兵器を持つべきだ」ということではありません。
ただ、「持つべきか、持たざるべきか、その選択肢を真剣に検討すること」くらいは、許されてもいいんじゃないか、ということです。

この80年間、僕らが目を背けてきたこの重いテーマについて、一度、真剣に国民全体で考える。そして、世界の平和について、もう一度向き合う。その「きっかけ」として、今回の騒動を捉えることもできるのではないでしょうか。