マスクをすることに理屈はいらない


とある国内線LCC航空で、マスク着用を呼びかけたところ拒否され、途中の空港でわざわざ着陸し乗客を降ろした、という話が話題になっています。

また、その後別の航空会社でも同じようにマスク着用に関してトラブルがありました。

今回は航空会社で起きた話ですが、同様の話は店舗、電車やバスなど、あらゆるところで起こり得る話です。

今回の話は航空会社で起きた個別のトラブルについての話というよりかは、もっと大きなカテゴリで社会とマスクについてのお話です。

マスクをすることは局部を隠すことと同じ

この一件に関しての論評で、過度なマスク着用義務化に疑問を投げかける文章を読みました。その中で、マスクをするということは局部を隠すことと同じになりつつある、という話がありました。

この現代において、いや有史以来というのか、アダムとイブが例の果実を食べてしまったときからなのか、人類というのはほぼすべての人が局部を人に見せないように暮らしています。もちろん例外もあり、主義主張によって家族内では常に全裸でいる人、一部のエリアでは常に全裸でいるルールであるケースなどもあるにはありますが、古今東西問わず大多数の人がたとえ一人でいたとしても局部を隠すようになっています。

なぜか。そんなこと誰も考えたことがないでしょう。誰に言われることもなく、そういうものです。これって後天的なのかな。不思議。

現代の日本で、局部を隠さず外を歩いていると捕まります。しかし、捕まりたくないからという理由で日頃から局部を隠す人は少ないと思います。

ただ、一つ言えるのはそのことについて疑問を投げかける人は少ないということと、そのことについて理由を模索する人も少ないということです。そういうもの、ということです。

マスクに関しても、もはやこの数ヶ月でその領域に近づきつつあることについては、実は自分もそう思っています。

飲食店の中では誰もマスクをしていません。ですが、外に出ればマスクをします。みなさんもそうでしょう。そこに理屈はありません。本当に布マスクでいいのか、周りに人がいなくてもマスクをしなければならないのか、ご飯を食べているときのほうが危ないのではないか、家庭内では人がいるのになぜマスクをしなくていいのか、などなど。冷静に考えればクエスチョンはたくさんありますが、気にしてはいられません。

マスクは理屈ではない

結論から言うと、そこになぜ、を問うは必要ありません。理屈ではないのです。この数ヶ月で、そういうものになりつつあります。

実は自分自身も前々から言っている通り、マスクはパフォーマンスだと思っているところがあります。自分がマスクをする理由の半分は感染予防、残り半分は社会で生きていく上で周りの人と喧嘩しないように、そしてマスク原理主義の人を不安にさせないようにするためです。

これを同調圧力だと言う人もいます。それもあるかもしれません。感染予防には必須だと言う人もいます。そうかもしれません。もはや必要ない、という人もいます。そうかもしれません。

たくさんの人が一緒に暮らす社会ですから、いろいろな考え方があって当然です。肉体的な事情、精神的な事情で、マスクをすることが苦痛で仕方ない人もいると思います。主義主張により自分の顔を隠すことが嫌な人もいるでしょう。その結果、好き好んでコロナのリスクを背負うわけでもなく、好き好んで周りの人と喧嘩したいのではなく、それでもなにがあってもマスクをしたくない、することができない人もいるのは当然です。

マスクについては、今年起きた急激な価値観の変化ということで、社会全体としてどう対応すべきなのか。ルールとして盛り込むべきか、お願いのままやっていくべきか。マスク以外にも、ソーシャルディスタンスの考え方、三密の考え方などでは、なぜあれはよくてあれはダメなのか、というものがたくさんあります。

数十年後には令和時代の珍ルールとして特集されているかもしれないですし、それが当たり前になってるかもしれません。昔はマスク無しで外を歩いていた、昔の人はおかしい!!なんて時代になっているかも?

たくさんの不明瞭な情報に加え、価値観の急激な変化、たくさんの不安。いろいろなトラブルが起きるのは当然です。その中でお互いをどう尊重しあい、コロナのある社会をどうやって乗り越えていくか。答えはひとつで、お互いに優しくなるしかないとは思ってはいます。マスクをしたくない人はマスクをして欲しい人の気持ちを考え、マスクをしてほしい人はつけたくない人の気持ちを考え、その中でどう穏便に落としどころを探せるかというところ。でも実際できそうで、簡単にできませんよね。これから社会はどのように対応していくべきでしょうか。