本を燃やす、ということについて。焚書はアリかナシか。


高知県立大学が図書館の改築により、保持スペースの縮小を理由に蔵書を焼却処分したというニュースがありました。

高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却 貴重な郷土本、絶版本多数

これはなかなかセンセーショナルな事例であり、大学が本を焼くというのはなかなかパンチ力のある見出しです。そんなこともあり、ネットでも大きな話題になっています。

本を焼くという行為

この本を焼く、という行為は焚書(ふんしょ)と呼ばれる行為です。たかが本を焼くくらい、と思う人もいるでしょう。しかし、本にはその国が築き上げた文化、歴史、思想が詰まっています。それらを焼くというのは、その国の基盤を打ちこわし支配する、という意味があるのです。

フィクションでもワンピースやアスラーン戦記でも同じように支配する側が本を焼くというシーンがでてきますね。

人間の歴史でも、古くでは秦の始皇帝が、最近でもナチスドイツが焚書をしています。他にも多くの事例があり、これらによって多くの歴史が失われてしまいました。

それだけ、本を焼くというのは大きな意味があることなのです。今回はニュースによると重複している本だけではなく貴重な本も失われてしまったということで、多くの意見が寄せられています。

どうすべきだったのか

とはいえ、大学も膨れ上がる本をいつまでも所有できるわけではありません。多かれ少なかれ、本というのは整理という名の処分をしているはずです。

ネットでは、肯定的な意見も見られます。

高知大学蔵書の処分は適切だったのではないか|閻魔堂|note

この話を読むと、多くの書物はすでにデジタルアーカイブで閲覧可能という指摘がされています。

もちろん、デジタルアーカイブでデータ化されていれば原本は捨ててもいいのかというとそういうわけでもないでしょう。ですが、本がなければすべてのデータがない、というような昔の状況と違うのも事実です。

とはいえ、今回の問題はどうすべきだったのか。最初からでかい図書館を作れよ、というのも一理あるのですが、限界もありますよね。まぁ燃やす前に処分しなきゃいけないリストを開示して貰い手を探すとか、そういうことはできたかもしれませんけども。

このデジタル社会、多くの情報がインターネットに集まる一方で、今回の件は新しい問題提起となったような気がします。